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例崩壊と行政は見なくて結構。

根性の汚い『おたえ』『求名』『盗人横ちん』は閲覧禁止。
尚『行政』は職務サボって職場のPCから見るな。税金泥棒。
職務が終わってから自宅のPCで見るべきです。

ブスは結婚不可能。陰口を平気で叩く間抜けキット顔も汚いのに違いありません。

そういう基地の害が見たら『リヴリー』が死にます。
遠慮して下さい。
そういう連中とは無関係です。『ルリピー』の『カトリック講座』

第3章 レジオの精神

第3章 レジオの精神

6 レジオ マリエの精神は、マリアご自身の精神なのです。レジオは、特に、マリアの深い謙遜、完全な従順、天使のようなやさしさ、絶え間のない祈り、すべてにわたる犠牲心、汚れのない純潔、英雄的な忍耐、天上的な英知、神への献身的で勇敢な愛、とりわけ、マリアの内で最高の輝きを放ち、比べるもののないマリアの信仰を絶えず求めます。マリアの愛と信仰に励まされて、レジオはあらゆる仕事を試みるのです。
「不可能をかこたず、なにごともなすべきであり、なしうると思う(『イミタチオクリスチ』第3書5)。

 「このような霊的、使徒的生活の完全な模範は、使徒の元后聖なるおとめマリアである。聖マリアは、地上ですべての人と同じように生活しておられた時、家庭の世話と仕事に追われながら、いつも御子と親しく深く接し、救い主のみわざに全く独自な方法で協力されたのであった。.....全信徒は、聖マリアを深く崇敬し、自分の生活と使徒職を聖マリアの母としての配慮にゆだねるがよい」(信徒使徒職に関する教令4)。

第4章 レジオの奉仕

第4章 レジオの奉仕

1.「神の武具を身につけなさい。」(エフェソ6:11)
7 レジオがその名前を取った古代ローマのレジオは、その忠誠、勇気、規律、忍耐、成功で何世紀にもわたって名をとどろかせてきました。しかし、こうした特質は、卑しい世俗的な目的のために使われることが多かったのです(付録4参照)。マリアのレジオが、古代ローマのレジオよりも劣る素質しか持たず、まるで美しく飾られていた宝石を剥ぎ取られた象眼のように、名前だけのレジオをマリアに捧げることができないのは明らかです。これらの特質でさえ、レジオの奉仕の最小限のものしか表してはいません。聖ぺトロによって回心し、聖パウロの助手であった聖クレメントは、教会にこのローマのレジオを模範として見習うよう勧めています。
 「敵とは誰か? それは神の意志に抵抗するよこしまな霊である。だから、わたしたちは、決然としてキリストの旗じるしの下にはせ参じよう。そしてキリストの栄えある指揮の下に身をおこう。軍の権威に服する古代ローマ軍団をよく観察して、彼らの規律、鍛練、実行、命令への服従に注目しよう。全員が、軍団長、護民官、百人隊長または、下士官であったわけではない。しかし、各人が各自の階級において、皇帝、あるいは上官の命令を行ったのである。大は小なくして存しないし、小は大なくして存しえない。一つの有機体はすべての部分を結合し、各部分は全体を助け、全体は各部分を助けている。わたしたちの体にたとえてみると、頭は足がなくては何ものでもなく、足は頭がなくてはなにものでもない。わたしたちの体の最小の器官でも、体全体にとって必要であり、有益である。事実、各部分は相互依存と共同服従のなかで、体全体の利益に奉仕する」(聖クレメント教皇殉教者のコリント人への手紙、第36章、第37章、96年)。

2.「この世に倣わない...神に喜ばれる聖なる生けるいけにえでなければなりません。」(ローマ12:1-2)
 このレジオの起こりを考えれば、忠実なレジオ会員の心に、彼の大義が古代ローマの軍団の大義よりもはるかに優れているように、古代ローマ

第4章 レジオの奉仕

の軍団の徳よりはるかに偉大な徳が湧き出てくるはずです。「こんなに多くをいただいて、こんなに少ししかお返ししないなんて.....おお、これこそ死ぬ思いの殉教です!」とアビラの聖テレジアが述べたあの思いと同じ気高い心の広さが湧き出てくるはずです。
 レジオ会員は、最後の息、おん血の最後の一滴までもお捧げになり、十字架にくぎづけにされた主を黙想し、主のように、完全な自己奉献ができるよう努力しなければなりません。

 「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか」(イザヤ5:4)。

3.「苦労し骨折る」ことをさけてはならない。(二コリント11:27)
8 熱心な信者が、死や拷問の責め具に出会うことを覚悟しなければならない場面は常にあります。現に栄光の門を堂々とくぐった多くのレジオ会員がいます。しかし、一般にレジオ会員の献身はもっとつつましいものですが、静かでも真の英雄的行為を実行するための機会はたくさんあります。ためになる話など聞きたくないという人々、崇高な使命をもった人々の訪問を受けてはっきりと嫌悪の情を表す人々に近づくことも、レジオの仕事に数えられます。たしかに、彼らを回心させることはできるでしょう。しかし忍耐と勇気なしにはできません。
 嫌な顔、侮辱と拒絶、嘲笑と悪口を受ける苦しみ、心身の疲労、失敗と忘恩からくる心痛、寒さ、雨、汚れ、うじ虫、悪臭、暗い路地や不潔な環境、楽しみの放棄、奉仕につきものの多くの心配事、不敬や堕落を見て繊細な魂が受ける苦痛、悲しむ人とともに心から分かち合う悲しみ??これらは確かにあまり魅力あることではありません。しかし、これらのことを柔和に受け取り、その中に喜びさえ見いだし終わりまで耐え忍ぶなら、その時にこそ、レジオ会員は、友のために命を捨てるほど大きな愛はない(ヨハネ15:13)といわれた、あの大きな愛にかなり近づいたことになるでしょう。

 「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」(詩編

第4章 レジオの奉仕

116:12)。

4.「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたちたちのために神に捧げてくださったように、あなたがたも愛によって歩まねばなりません。」(エフェソ5:2)

9 人間関係を成功させる秘訣は、人格と人格との触れ合い、つまり、愛と共感のある触れ合いを築くことにあります。この愛は見せかけのものであってはなりません。それは、真の友情だけが耐えることのできるあらゆる試練に立ち向かえる愛でなければなりません。それには、ささやかな犠牲を伴うこともしばしばあるでしょう。たとえば、先日まで囚人として刑務所に訪問していた人と繁華街で挨拶をかわさなければならなかったり、ぼろをまとった人と一緒にいるのを見られたり、垢にまみれた手を暖かく握ったり、非常に貧しい家や汚い家で出された食事を食べたりすることは、ある人にとっては難しいことかもしれません。しかし、もし、こうしたことを避ければ、いままでの友情ある態度は見せかけであったことになり、人間関係は壊れ、せっかく高められかけていた霊魂は再び幻滅を味わうことになるのです。
 全ての仕事をほんとうに実りあるものにするには、完全な自己奉献の心構えがなければなりません。この心構えがなければ、レジオ会員の奉仕は中身のないものになってしまいます。「ここまではよいが、これ以上の犠牲はとても.....」と、どこかで一線を引くレジオ会員は、どれほど努力を払っても、ほんの些細な仕事しか成し遂げられません。これとは反対に、もし、完全な自己奉献の心構えがあれば、たとえ払った犠牲がすくなくとも、計り知れない実を結ぶでしょう。

 「イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか』」(ヨハネ13:38)。

5.「決められた道を走りとおさねばなりません。」(2テモテ4:7)

第4章 レジオの奉仕

10 このように、レジオに呼ばれるということは、限界や制限をつけて奉仕することではありません。これは、単に完全であるように勧められているのではなく、ぜひ必要なことなのです。もし、最善を尽くさないなら、忍耐強い会員は育たないでしょう。生涯を通して忍耐強く使徒職を行う事は、それ自体英雄的なことであり、忍耐強さは、英雄的行為が積み重なってはじめて得られるものなのです。それでこそ、始めて報われるのです。この忍耐の精神は個々の会員にとってのみ重要なのではなく、レジオが果たす一つ一つの仕事にたいしても同じ忍耐をもって行うよう努力しなければなりません。もちろん仕事がいろいろ変わることは当然のことです。いつも同じ場所や同じ人を訪問するわけではありません。一つの仕事が終われば次の仕事が始まります。これは人生にはあたりまえの変化であって、非常に優れた規律をも台なしにしてしまうような落ち着きのない気まぐれさや新しもの好きではありません。人の心の変わりやすさをよく知っているレジオは、会員たちにもっとしっかりした精神を持つように促し、集会のたびに「しっかりしなさい」という合言葉を彼らの耳に響かせて仕事をしてもらうのです。
11 真の成功は不断の努力があってこそ生まれ、この不断の努力は勝利を勝ち取ろうとする強い意志の結果なのです。この強い意志をもち続けるために必要なことは、絶対に意志を曲げないということです。ですから、レジオは各支部や会員たちに、敗北を認めたり、仕事を「有望だ」とか「有望でない」とか「絶望的だ」などと等級づけしないように強く求めているのです。レジオに関する限り、ある仕事を「絶望的だ」と決めてしまうことは、一つのかけがえのない霊魂が地獄へ落ちていくのをそのままにしておくということなのです。さらに、より高い理想ではなく、変化や目に見えた成果を無意識に求めることが仕事の動機になっていくということになりかねないのです。こうして、種をまいた後から収穫があがらないと失望し、やがては、その仕事は見捨てられていくのです。
12 もう一度、次のことをはっきりと強調しておきましょう。ある一つのケースを「絶望的だ」と決めつけることは、自動的に他のあらゆる場合への会員の態度を弱めることになるのです。意識していようと、無意識であろうと、ある仕事をする時、この仕事はやるだけの価値があるのだろう

第4章 レジオの奉仕

かという疑問が起こってくるのです。ほんのわずかの疑問でさえ、やる気を失わせるのです。
 さらに悪いことに、レジオの仕事を純粋に信仰心だけで行うのではなく、理性がよいと判断した時にだけわずかに信仰心が芽生えるのです。信仰がこんなに足かせをはめられ決心が弱められると、今まで表面に出てこなかった人間本来の臆病心や心の狭さや世間的思惑が一度に押し寄せ、レジオは気まぐれな心のこもらない奉仕しかできなくなってしまい、神に対して恥ずかしい捧げ物しかできないレジオになってしまうのです。
13 だからレジオは仕事の計画よりも目的を達成しようとする熱意を大切にするのです。レジオは会員に富や権力ではなくゆるぎない信仰を、目立つ行いではなくたゆみない努力を、才能ではなく絶えず燃え続ける愛を、偉大な強さではなくしっかりとした規律を求めるのです。レジオの奉仕は、確固としたものであり、決して失望するものではないのです。危険にあっても常にゆるぎない岩のようでなければなりません。成功を希望し成功しても高ぶらず、成功に左右されず、失敗と戦い、失敗しても落胆せず、幾度失敗してもくじけず、困難と単調な仕事の上にレジオの奉仕は花開くのです。というのも、困難と単調さのうちにこそ、生涯を貫く信仰と努力が培われるからです。呼ばれれば直ちに応え、呼ばれなくとも常に警戒を怠らず、明らかな危険や誘惑がないときにも神のために周りを注意深く見渡し続けて疲れをおぼえず、不可能なことに挑む勇気をもち、捨石となることを快く受け入れる、これがレジオの奉仕なのです。荷が重すぎる仕事もなければ、つまらなすぎる仕事もありません。すべての仕事に同じ細心の注意とたゆまない忍耐、不屈の勇気をもってあたり、全ての仕事に粘り強く取り組み、人々の霊魂の救いのために常に待機し、社会的に弱い立場の人々を困難な時に支え、心のかたくなな人々の心和らぐほんの一時をも見逃さず、迷っている人々を捜し求め、自分のことは気にかけず、常に他の人々の十字架の側に立ち、務めが終わるまでそこに立ちつづけるのです。
 「忠実なおとめ」に捧げられた組織、レジオ マリエの奉仕は、その名の名誉にかけて、忠実なものでなければならないのです。

第5章 レジオの信心の概要

第5章 レジオの信心の概要

14 レジオの信心の概要は、祈りの中によく表れています。レジオは、何よりも神への、また、神がご自分の子どもたちに対して抱いておられる愛への深い信仰の上に築かれているのです。神は、わたしたちの努力が、ご自分への大きな栄光となることを望まれ、わたしたちの努力を清め、それを実を結ぶもの、たゆまぬものとしてくださるのです。わたしたちが、無関心と病的な不安との両極端の間で揺れ動くのは、神をわたしたちの仕事に関心をお持ちにならない方と見るからです。そうではなく、神がわたしたちの心によい決意を植え付けてくださったから、わたしたちはよい決意を抱いているのであり、神が常にわたしたちを支えてくださるならば、それを実らせることができるのだということを悟りましょう。今とりかかっている仕事の成功は、わたしたちの力によるよりも、はるかに、神のお力によるのです。神は、わたしたちの回心をわたしたちが望んでいるよりはるかに強く望んでおられるのです。わたしたちは聖人になりたいと望んでいますが、神はわたしたちよりも百万倍も強くそれを望んでおられます。
 自分を聖化することと人々に奉仕するという二重の仕事において、善い御父である神がいつもともにいてくださるという意識が、レジオ会員の最も大切な支えでなければなりません。成功をはばむものは、信頼の欠如だけです。信仰さえ十分にあれば、神はこの世界を神の国に変えるために、わたしたちを使ってくださるのです。

 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(一ヨハネの手紙5:4)。

 「信じるとは、いかに『神の定めは悟りがたく、その道は窮めがたい』(ローマ11:33)かを謙虚に認めつつ、生ける神の言葉の真実に『身をゆだねる』ことです。マリアは、いと高きおん者の永遠のご意志によって、いわばこの『悟りがたい定め』と『窮めがたい道』のまん中で『信仰の暗闇』に包まれながらも、心を開いて、神のご計画にあることすべてを完全に受

第5章 レジオの信心の概要

け入れました」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅「救い主の母」14)。

1.神とマリア
15 レジオは、神についで、「すべてを越える神の不思議な奇跡」(教皇ピオ九世)であるマリアへの信心を基礎としています。でも、神との関係において、マリアご自身はどのような立場におられるのでしょうか?
 神はこの世のすべての人々と同じように、マリアを無からお創りになりました。それ以後、神はマリアを無限で計り知ることのできない恵みの段階にまで高められましたが、それでも、神に比べればやはり無なのです。マリアは??他のどんな被造物よりもはるかに??神の被造物なのです。
なぜなら、神は他の被造物にされたよりもはるかに多くのわざをマリアにされたからです。神がマリアに偉大なことをされればされるほど、ますますマリアは神のみ手による作品となられるのです。
 神は偉大なことをマリアになさいました。永遠の昔から、救い主のことと共にマリアのことも、神のお考えの中にありました。神はマリアを、み子と、み子と一致する人々との真の母とし、恵みの計画の神秘に結びつけられたのでした。神がこのようにされたのは、第一に、神は他の全被造物からよりも、マリアお一人から、より多くを期待でき、第二に、神は、それによって、わたしたちにははっきり理解できない方法ですが、わたしたちから受ける栄光を高めようとされたのでした。こうして、わたしたちの母であり救いの助け手であるマリアに、わたしたちが捧げる祈りと愛の奉仕は、マリアをそのようにお創りになった神に捧げることになるのです。マリアに捧げられたものは、確実にそのまま神のもとに届けれるのです。しかも、軽減された捧げ物ではなく、増大された捧げ物として届けられるのです。マリアは、単なる忠実な取継ぎ者ではありません。神は、マリアを神の慈悲深いご計画の中で重要で欠くことのできないものとされ、マリアがそこにいることによって、神の栄光とわたしたちが受ける恵みが一層すばらしいものになるように定められたのです。
 ご自身に向けられる尊敬を、マリアを通して受けることが永遠のおん父の喜びであるように、まず神は、すべての恵みの基である人となられた神


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doctor-yoko

当然です。
by doctor-yoko (2007-08-02 00:51) 

豚さんホーホケキョ

ブスに来られたら腐る。
by 豚さんホーホケキョ (2007-08-02 00:59) 

スマイルママ

氏ねー不細工女おたえ。
by スマイルママ (2007-08-02 01:02) 

Comback-Kid

創価にいけ。
by Comback-Kid (2007-08-02 01:04) 

たいち

あの、おたえとか言うブスのせいで俺のマシンが腐った。
by たいち (2007-08-02 01:06) 

マッハ3

ブスは新でも治らない。
by マッハ3 (2007-08-02 01:12) 

sennna

あっちゃ行けブスおたえ。
by sennna (2007-08-02 01:16) 

法座主のお姉さん

一部の機知ガイのせいでドエライ迷惑やわ。アホ。。!!!!
by 法座主のお姉さん (2007-08-02 01:23) 

パンダ

豚とブスはしねー
by パンダ (2007-08-02 01:25) 

星の司祭

カトリックにのみにしなさい。
by 星の司祭 (2007-08-02 01:27) 

御総覧者

平に平に謝罪します。あいつらは破門。
by 御総覧者 (2007-08-02 01:36) 

海原遊山

片腹痛すぎる。あはははは
by 海原遊山 (2007-08-02 01:50) 

医学部応援部

当然だ脳なしには分からぬ世界だぜ。
by 医学部応援部 (2007-08-02 02:11) 

御総覧者

余が陳謝致す。

1.Dio e Maria
Io verso geo -., Dio 15 ri e è basato su fede alla Maria che è "miracolo misterioso di Dio più di tutti (il nono Papa..)."Ma, in relazioni con Dio, che genere di punto di vista Maria possederà sia piegato in?
 Dio fece Maria da nulla nello stesso modo come tutte le persone del mondo.Da allora poi fu elevato nel palcoscenico della benedizione che Dio inganna Maria all'infinità, e non può sapere, ma dopo tutti ancora non è nulla se lo compara con Dio.Maria?Più lontano che alcun genere di altra coperta tutte le cose in natura?È coperta tutte le cose in natura di Dio.
Perché Dio è perché era fatto molto più abilità da Maria che era considerato che io fossi l'altra coperta tutte le cose in natura.Come per la Maria, di solamente Dio è sofferto da con un lavoro dalla mano sempre più così che si considera che Dio sia esso, se è fatto una grande cosa da Maria.
 Dio faceva una grande cosa a Maria.Dai vecchi giorni dell'eternità, era la cosa della Maria nell'interno dove pensò a Dio con una cosa del Messia.Io guardai, e Dio faceva Maria con la vera madre con un bambino e le persone che io lo guardai, e convenuto con un bambino, e fu allacciato al mistero del piano della benedizione.Prima era era considerato che quel Dio fosse così in, e dipese da Maria uno che da altro tutte le coperte tutte le cose in natura, e Dio potrebbe aspettarsi la maggior parte, e secondo era il metodo che io non posso capire chiaramente a noi, ma, come per Dio, sta andando ad essere stato elevato gloria per ricevere con ciò da noi.Io darò preghiera ed il servizio dell'amore che noi diamo alla Maria che è nostra madre, e sono una mano di aiuto dell'aiuto a Dio in che fece così Maria come quello.Io posso spedire solo la cosa data certamente alla Maria con Dio.Non un'offerta ridotto, è spedito come un'offerta aumentata, inoltre.Maria non è una persona di... quale è la semplice fedeltà.È fatto che è importante, e Dio non può mancare in Maria in un piano misericordioso di Dio, e la benedizione che gloria e noi di Dio riceviamo perché Maria è è là ancora più splendido; fu stabilito così che era fatto.
 Dio che era gioia dell'eternità... padre per prendere rispetto girato per possedere attraverso Maria, e per prima è con la persona che c'erano sotto tutte le benedizioni come per Dio
by 御総覧者 (2007-08-05 13:30) 

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